告白

「日本人は宗教に対して実用主義的なアプローチを行っており、そのために津波地震といった自然災害によって宗教に向き合うことがない」と、ワシントン大学で国際関係学を専門とするドナルド・ヘルマン教授は説明している。

 実用主義的なアプローチというのは「商売繁盛笹持ってこい」みたいなことを言うのだろうか(笑)確かに多くの日本人は「神様」と非常にドライなつき合い方をしているように思われるが、一方ではどっぷりはまり込む人達もいる。ただ、恐らくはまり込んでいない人達の日常的な感覚は一神教文化に生まれ育った人達と日本人の間では相当違うことは想像できる。
 自分と宗教について語れば実は小学生時代、二度ほど宗教に関連して半年近く鬱な状態から抜け出せなかった経験を持っている。
 一度は学校の図書館の児童向け雑学全集本に掲載されていた「六道輪廻の図」を見たときだ。60〜70年代の少年誌に載っていた「エアカーがビルの間を走る高架道路上を走りまくっている既に実現しているはずの未来図」のような妙に書き込みの多いリアルな筆致で描かれており、一番大きく取り上げられていた地獄図の凄惨さも然ることながら、当時私が一番恐怖したのは極楽の図だった。そこには睡蓮の花咲く空々しいまでに平和な世界の中、表情の無い仏様が何をするでもなく立ち尽くしていた。
 今にして思えばなんて正確に仏教の世界観を表した図だったんだろうと思うが、住んでいる人が皆悟りきってしまって、娯楽は愚か何の感情も存在しない世界が存在して、しかもすべての魂は散々試練にあってまで、その世界を目指しているのだと考えただけでこの世界には何の救いも存在しないのだと思えた。実際のところ、次のページにはキリスト教の死生観を表した図があって当然そこには最後の審判やら黙示録的ハルマゲドンやら地獄の図なんかもあったはずなのだが、私には仏教系極楽図ほどのインパクトがあるようには思えなかった。
 その時の傷がようやく癒えかけた頃、私はあるキリスト教系宗教の勧誘にあった。当時、実は親の仕事の関係で海外に住んでいたのだが、そろそろ日本に返ろうかと言う頃、当時通っていた学校近くの公園で中年女性の勧誘にあった。何気なく話かけられ、そのままずるずると説明を聞くことになってしまったのだが、彼女の説明によればこの世でどんなに良いことをしても神様と契約をしなければ地獄に行くことになる。あなたの年ならまだ間に合うと言うことだった。
 これもまた契約宗教としての一神教の真髄を端的に表した言葉だとは思うが、極楽図の経験から宗教的なものへの強烈なアレルギーを持っていたことがかえって仇になったのかマインドコントロールが効いてしまい最終的に入信のお祈りをさせられてしまった。おそらく「も○みの塔」系の団体の脱法行為すれすれの勧誘だったとは思うが、結局この後一回その団体の人が自宅を訪れたようだが私は家に帰る途中には既にマインドコントロールが解けてしまい、幸いすぐに日本に帰ることもあってその団体とそれ以上係わり合いになることは無かった。
 ただ、こうした経験を経て宗教については一通り能動的に勉強をしておかないとこれからの人生の中で自分を守れ無くなることがあるかもしれないと思い、どの宗教に肩入れすることもなく一通り仏教、キリスト教神道については勉強した。キリスト教についてはたまたま大学がカソリック系だったこともありそれなりに突っ込んで勉強する機会もあった。
 最終的な結論は私の人生に、宗教の入る余地はほとんど無いと言うものだった。

  1. 一神教的宗教は結局契約宗教であり、「どちらかの」立場に立って考えることを求められる。色々と後付けの論理が付いてきて近代的な体裁は持っていてもそれが本質。人知を超えたことに対してどちらかの立場につけなんて近代精神に反する愚行としか思えない。
  2. 仏教については蜷世的なアナーキズムの極みであり、原理的に立ち返れば人の人生にありうべきものを否定している。大乗等の後付けの思想は社会に迎合するための理屈に過ぎない。
  3. 神道はこれら「宗教」の呈はなしていない。国家神道は似非キリスト教的な単なる明治政府の作った支配機構なので論外として先人を神と祀りその怒りを静めたり、入会林や鎮守の森のような社会的共通資本に人格権を認める共生のためのメカニズムと言える。

 極めて単純化してしまえばこういう話。確かに「懺悔」のような制度は精神衛生上有益だと思うし、最終的に神様によりかかって暮らすのは楽そうだけど、楽になるために曲がりなりにも現代人と生まれることによって獲得することの出来た魂を売り渡せるか?仏教についてはまだ自分の家族もおらず、人生の中に訪れるはずの魂を削られるような葛藤を経験していないのでその意義が見出せないのかもしれないという疑問はあるが、取り合えず「日本の」仏教に帰依することに意味があるとは思えない*1
 だから私は日本人的に神道的な機構に取り込まれた仏教行事やキリスト教行事もそ知らぬ顔をしてその他大勢の日本人と同じように本来の意義に立ち返ったりせず表層的に祝うと言うものだ。近所の神社や通りがかりに出会った神様には仁義を切ることも良いことだと思う。友達の教会での結婚式では賛美歌だって喜んで歌う。
 そういう日本人的な宗教観は世界でも稀に見る健全な精神構造であり、それこそが日本人の持つ最大のソフトパワーだと思う。ただ、一神教的な物の見方を知らずに無邪気な発言をしたり、お坊さんに訳の判らないことで大金を払うのはどうかと思うけど。
 そう言えば、ソースは忘れてしまったが、いわゆるジャパニメーションがクールな理由として「社会的なタブーが極めて少ないので発想がどこまでも自由」と言うことをあげていた言説があったがまさに至言だと思う。
 逆に最近の国家神道への回帰の動きには反吐が出る。ちゃんと宗教について勉強していれば*2絶対にあんな結論には至らないはずだ*3
 つい熱くなってしまったが、結局この記事に関する結論はそんな日本人に生まれて良かったってこと。

*1:知識の対象としての興味はある。

*2:私も正確な意味での宗教学をアカデミックに勉強したわけではないけど、こういうことについてはミイラ取りがミイラになる可能性が高いような気がするのでそこら辺のさじ加減が大事だと思う。

*3:まあ確信犯的に支配機構としてのメカニズムを復興させたくて動いている人も多いんだろうが。