ラベリング

仕事中に集中しきれない、不安に襲われる、処理しきれない感情の動きがあるなどの「病状」が顕れたとき、僕はその時の感情をググってみる、という一種の自己治療的行動に出ることがある。

今日もそんな日だった。

年度末が近づいていること、そして先日のカウンセリングが結果的に僕にとって理解しがたい要求で終わってしまったことでいつもならある程度のカタルシスを得ることが出来るところが、今回は暗中に一人残された気分になってしまった。これは自力では解くことの出来ない問題を面前に机に縛り付けられているという状況に置かれているような、自分にとっては一番据わりの悪い状況が続くという感情的に負荷のかかる状況が継続することを意味している。僕が最もパニックに近い状況になるシチュエーションだ。

まあともかく、その状況下で僕は取り立てて目新しくもない言葉に突き当たった。AC、アダルトチルドレン。なんとなく知ってはいるが、厳密にその意味するところを理解しようとするとその語感からもっとも本来的解釈から乖離した理解を社会から受けている言葉の一つであるようだ。その誤解を避けるために専門家の間ではアダルトサヴァイヴァーという言葉が提唱されているようだが、その言葉もまた新たな誤解を生むような気がする。

端的に言ってしまえば、ある種の機能不全を抱えた家庭で育ち、大人になった人ということらしい。極端な例では両親のどちらか、もしくは両方がアル中であったり、家庭内で性的虐待にあったり、或いは親との関係が依存的であったり、家族の中で子ども以外の役回りをこなさざるを得ない状況にあったりすることも該当するらしい。

ただ機能不全な家庭と言ってもじゃあ完全な家庭など存在するのかと言われればそんなの見たこと無い、と言う答えが返ってくるのが大方の状況であろう。
というわけで、程度の差こそあれ、大抵の子どもはそう言う家庭に育っており、ではほとんどの人間は過去の家庭環境に起因する症状を治療する必要性に迫られているのかと言えばそのような事実もないわけで、程度の差は子どもの側にも家庭側にも存在するわけで、結局は具体的に大人になって自分だけでは対処しきれない問題が生じた人のことをそうさすらしい。

普通に聞いているとどこの家庭でもあり得る状況、というかそうでない家庭は無いんじゃないかと言うぐらい網羅的な条件が提示されており、「子ども」の側の受け止め方次第であると言う点でも胡散臭いというか、認めてしまえば怖くて子育てなんて出来なくなるし、そういう言い訳を作ってしまうと自分の問題はなんでもかんでも家庭環境のせいという話になりかねないところからどこか日本の精神医学界からはタブー視とまではいかないまでもどことなく胡散臭い話とされている概念らしい。

が、カウンセラー氏の発言の端々に出ていた言葉とwikiに掲載されていたことは驚くほど一致していた。ADD傾向の話やアスペルガーの話を僕が振ったときのやんわりと可能性を否定する態度とは一変して現実への対応を語る姿勢だった。

とはいえ、自分の問題点を不可逆的な要因に帰属させるのは良くないとも言ったりする。まあ、治療の手段として特に催眠療法などで過去の体験を再現する手段については前から否定的だったのでその点は一貫していると言うことだろう。


とどのつまり、現状の原因は家族と自分の関係性にある。その上で過去に原因を求めても慰めにはなっても前進にはならない。今するべきことはこうなってしまった自分をありのままに認めて見つめることだ。

ここまでは何となく判るような気がする。ただ、ありのままのどうしようもない人間のくずのような自分を認めちゃってどうするんだ?仕事も出来もしないのに焦らず、結婚願望はあるのに努力もせず、逃避的に異世界に逃げ込む。そんな姿だ。

言語化するのが難しいから抽象的な話になってしまうのだと思うのだけど、多分アウトラインはそうなんだろう。ただ、目指すべき到達点は微妙に違うような気がする。

要は自己肯定から始める、ということなのだろうか。色々あったが、それぞれ陰陽両面あることで、否定している自分の陰には肯定できる自分がいる。そう言う自分を見ないようにしてただ「変な親の元に生まれついてしまって」とか、「いい歳してスタート地点からいつまでたっても軌道修正できないでいる非生産的な自分」とか、そういった自己憐憫に浸っているだけでは現状に止まるだけだ。

恐らくACという見立てを意識的にせよ、無意識的にせよ、僕に明かさなかったのは「やっぱりそこが問題だったんだ」と言うことが結論になることが一番回避すべき事態だったからなのかな。


ああ、結局ウジャウジャしただけの話になってしまったけど、まあいいか、と取りあえず自己肯定してみる。ちょっと違うか。