〜前略
 ただ過去の積み重ねに基づいて現在に対応するというだけでは、環境変化への適応にとどまらず環境の変化それ自体もつくり出していく知識創造は不可能である。「どうありたいか」という独自の未来のビジョンを持ち、その未来から現在を引き寄せることによってはじめて、企業は主体的に独自の知を創造していくことができるのである。
 知識ビジョンは、「なぜそれをやるのか」を問うことを通じ、組織の戦略の根幹を問い直し、組織の戦略の基幹となるミッション(使命)やドメイン(活動領域)を決定する。知識ビジョンは知識スパイラル(発展経路)に方向性を与え、企業内外の組織の境界を超えながらも、その企業の追及する価値から焦点をずらすことなく、企業の知識の基盤や長期的な進化の方向を決定付ける。
 また、知識ビジョンは組織メンバーの知的情熱を触発し、組織が生み出す知識の質を評価し正当化するための一貫性のある価値体系を定義する。前述したように、主観としての古後が他者の持つ地と総合されて新しい知が創出されるためには、知の正当化と言う社会的なプロセスが必要であるが、そのためにはその組織にとって何が「真・善・美」であるかという一貫した価値基準が必要となる。
 したがって企業の知識ビジョンの策定においては、ウォールストリート的価値(利潤最大化)を超えた、企業の主体的存在意義を示す「絶対的な価値」が必要となる。他社との「競争に勝つ」という相対価値は、自らの存在価値のよりどころとはならない。しかし絶対価値ビジョンは世界に対する普遍の「構え」として組織メンバーに共有され彼らが作り出す知を正当化する基準となるのである。
 こうした知識ビジョンは、その吸収を促す語りかけと具体的な仕組みを欠いては、単なる美辞麗句に過ぎない。ビジョンに基づいて知が創造され正当化されるためには、ビジョンと知識創造プロセスを連動させる具体的な概念、数値目標、行動規範、そしてリーダーによる絶え間ない働きかけが必要である。
(参照元:日本経済新聞 2005年2月3日 p.27 「やさしい経済学ー21世紀と資本主義 知識社会と企業 6.企業の存在価値」一橋大学教授 野中郁次郎)