朦朧とした週末

結局なんとなくが抜けきらないまま週末が過ぎていった。
金曜日は警戒して22時ぐらいには就寝。それでも起きたのは8時ぐらい。結局法事の会場にたどり着いたのは約束の時間の10時ギリギリ。まあ、田舎の話なので実際に法事が始まったのは1時間後ぐらいだったが、朦朧としながら辛うじて顔を知っているぐらいの親戚の皆さんの相手をしていると時折法事の主役であるばあさんの声が聞こえるような気がした。当然のことながら親戚のおばさんの数人はばあさんと声が似ているわけで、意識がはっきりしない中狭い場所に大勢が集まって点で勝手に話をしている状況で、ばあさんのような声が聞こえてもおかしくはない。
なんとなく彼岸と此岸が近かった日だった。
昨日の晩はそのままの流れで親と親戚のおじさん夫妻と少々呑んでしまったが、そこで話をしていて思ったことは全共闘世代とは微妙にずれているはずのこの人達も自由や民主主義という抽象概念を信じてそして神を自分たちの中から全く排除している世代だと言うことだった。
親の世代のこうした考え方は確実に自分の中にいて、個人崇拝や宗教に通じる考え方に対する強烈なアレルギーがある。ここでつまらない使い古された団塊ジュニア論を持ち出すのはつまらないと自分でも思うのだが、それでも思わずにはおれないのは、彼らには少なくとも戦後の開放感というカタルシスが存在し、その経験だけで素直にかっこいい抽象概念を信じることが出来たのに僕らにはそれに変わるものが何もなく、逆に節目節目に挫折感や社会に対する不信が生じてきただけだったと言うことだ。
僕はここ数年方法論はともかくとして社会に対する貢献、正義の実現といった概念を自分のビジネスを通じて実現していると信じることを宗教にしなければまともに生きていくことは出来ないと思っていたが、中々状況がそれを許してくれない。自分の属する組織のあり方がそうした考え方からかけ離れていたり、自分の体と精神状態がとてもそうしたところまで到達できるほど余裕のある状態ではないこと。
呑んでいる中でそうした話が出てぽつぽつと自分の悩みを酒のせいもあって話をしてしまったのだが、特に話題に参加している人間の比率の問題もあって僕が何を話をしているかさえ理解してもらえなかった。まあ、酒を飲んでいる人間に酒を飲んでいる人間に抽象概念を説明してもそもそも通じているかどうかさえ確認も出来ないだろうからそんな場面でそんな話をした自分が悪いのだが、かえってその時の経験を通じて自分の何が悪いのかという点はくっきり見えたような気がする。後は何をすればよいのかが見付かればよいのだが、、、むしろそれが問題。
せめてばあさんが枕元に立ってくれればと思うが、あの唯我独尊のばあさんが出てきては話が余計ややこしくなるだけか。sigh