最適化に関する勘違い

このカテゴリーで書くのは随分久しぶりと思っていたけど、さかのぼってみるとまだ一年経っていないようだ。
前回を読んでみると、結構今回のネタとかぶっているのかなと思うような箇所もあり、進歩が無いなとも思うが気づきを固定化するのが目的なのでそう言うことにはこだわらずに書いてしまうことにする。

自分は何故行動を起こすのにためらいがある場合が多いのか、という問題意識が思考の出発点になった。
結論は自分はなんでも綺麗に進めようとしたがるということだ。
失敗をおそれる。常に最短ルートを通りたがる。

それは見方を変えると、選択という行為を最適化しようとしているということだ。

一見すると選択の最適化ということは可能なように見える。経験によって明らかに間違いなルートを事前に察してそのルートを選択しない、という手法によって。

だが、実際は間違いルートを選別すると言うことは未来を予見すると言うことだ。似たような選択肢はかつてあった出来事には繋がっていない。

それは自分の経験というフィルターに基づいた根拠のない確信だ。

実際のところ人間による自分の方向性の最適化は、選択の段階ではなく、行動の段階でのみ有効に行われる。かつて上手くいかなかった選択肢はこの行動の最適化によって上手くいく可能性のある選択肢に変えることができる。


一見して未来を予見した最適化というものは日常的に行われている。それは段取りであったり、下準備であったり、スケジューリングであったりする。
だが、これらはいずれも選択ではなく行動の最適化だ。
仕事の分量を見積もって、或いはマージンを取るために前倒しで行動を起こす。仕事を分散化するためにスケジューリングを行う。いずれも行動を伴う、経験に基づいて自分の行動に対して保険を掛ける行為だ。要領の良い人間は生来から、或いは教育の成果として身につけているだろうけど、要領の悪い人はそれなりに痛みを伴う学習によってこれを学ぶ。


では僕が懸命にやっていた最適化とは何か。
動き出した時点で結果が分かる人間はいない。その結果を予知しようとするのはなぜか。

未来、或いは自分の行為に対する恐怖が原因だろう。なぜそれを異常に過敏に感じるのか、それは判らない。父親にもそう言う傾向が顕著に認めれるので或いは遺伝的なものか、幼少期からの学習の成果なのかもしれない。母親は逆に行動を起こすことに一切のためらいが無い。ためらいも生物の本能として適度に存在する必要があることは「好奇心は猫を殺す」という常套句が示すとおりだが、その行動力のあまりの破壊神ぶりを反面教師にした可能性もある。また、実質的に幼少期の自分を育てた祖母は自分の出自である農家独特の労働力への希求心からか、とにかく生産性の低い行動=要領が悪いことを嫌う傾向にあり、そのことも原因の一つとしてあげられるかもしれない。

だが、理由の探求は抜け道を示してはくれない。はっきりしている事実としては僕自身が結局一つ一つの失敗からの痛みを忘れられず、自分の行動を狭めていたということだ。

僕の人生はひょっとしたらたった一言で表すことができるのかもしれない。「下手な考え休むに似たり」



最近気付くと自分の行動を「清水の舞台から飛び降りる」と形容していることが多い。

こうした過度の保守性は通常人間がとおる道筋としては年齢が進むにつれてより深まる傾向にあるが、僕の場合スタート地点が酷かったのでむしろ徐々にマシになりつつあるのかもしれない。
ただし、若い時分の蓄積がない分年齢に相応しくない新たな痛みを負うことになる。
しかも行動の最適化という面では当たり前に習得しているはずのノウハウが欠落していることが多い。
だからこそ、この歳になっても勢い余ってつんのめることが多くなり、それを自分なりに「清水の舞台・・・」と表現しているのだと思う。


恋愛に対して弱さがあるのは、こうした予測不能なものを避けて通る習性と、行動の最適化がなされていないことから起こる突飛な行動に由来していると思われる。


これは結局いまさら気付いたところで対処としては「これからは地道に頑張りましょう」というぐらいしかないのだけど、この事実、自分の人生の大半は目的から目を逸らすこととその間の暇つぶし的な行動によって構成されていた、という事実を直視していまさらながらのスタートを切るしかこれからの人生が多少なりとまともになる道は残されていないのだろう。そして恐らくこれからの多少なりともまともな人生への道に、最適化された選択ルート=近道、は存在していない。