なんかやる気無くした。

で、現代に生きている自分から見て読むと、キリスト教もフレーザーが未開の風習として説明するとおりの習慣や教義をきっちり持ってるわけ。なんでキリストは死んで復活したかって言うと、ヨーロッパの土着宗教に限らず狩猟採集農耕の習慣のある様々な社会において、「神は定期的に殺されて蘇り、世界や共同体に利益をもたらす」ものだからなの。定番なわけ。定期的にってのは実は1年のサイクルだったり王の代替わりだったりするわけね。

で、なんであっちでもこっちでも神様が殺されちゃあ生き返ってるんだろうか、源流が一つってわけでもないのになんでなんで?ってのがフレーザー卿の大研究なわけですよ。この本を読むとそこがわかってくるわけです。

気合い入れて金枝篇について書こうと思っていたのだけど、参考資料色々探しているうちに凄く上手にまとめていて僕の言いたいことも全部言っちゃっている人がいたのでもうここ紹介するだけでいいやって。

とは言え自分の言葉で書きたいことはあるので少々。

特に上に参照した箇所は激しく同意。むしろフレイザー卿は空気の読める人でほぼ同時代人であるダーウィンのように無用な論争に巻き込まれて無神論者扱いを受けることを恐れてキリストの復活と自分が論じている「殺される王」のテーマの類似性について明確に言及することを避けているようにも思えた。だけど、実は結構ニアミス的な記述もあったりしてそんなこと恐れ多くて考えることも出来ない人ならともかく、思想的に自由に生きている日本人から見ると、「これってほぼ言っちゃっているのと同じなんじゃないの」と思えたりもする。

あと、wikiにも文化進化論的思考法が批判の対象になっているなんて言う記述も見えるけど、第三部第四章の「未開人への感謝」では

われわれの今のものの考え方の基礎は、遠い昔から幾世代もの人々が気付きあげてきたものなのだ。とやかくいってもまだそれほど立派な水準には達していないが、しかし、ここまでたどりつくのに人間がどれほど苦労し、延々と努力を続けてきたかを、われわれはほとんど実感していない。そうした苦労を重ねてきた名もなき忘れ去られてしまった人々にこそ、私たちは感謝を捧げるべきである。
〜中略〜
われわれが感謝の気持をもって後世に伝えるべき恩人たちの多くは、いや、おそらくその大部分が未開人だったのである。なぜなら、結局のところ、未開人とわれわれは相違点よりもはるかに類似点の方が多いからだ。
〜中略〜
われわれは財産の相続人のようなものだ。

図説 金枝篇


と、かなり謙虚に"未開人"を評価している。

また、人間を生贄にする風習についても結局ヨーロッパ人だって結構最近まで同じことやっていた証拠があるし、今でも実際に殺しはしないまでも擬似的に当時の風習を伝承している事例は各所に残っているよねという論証のためにかなりページ数を割いていたりする。

文明そのものに進化論を適用してしまったり、大真面目に身体的特徴から東洋人が人間の幼形成熟であると論じるような人が評価されたりした19世紀にあってはかなり開明的な思考の持ち主だったと思える。

少々気になるのは結局沢山の資料から都合の良い部分を拾い上げて似たような事例があるから多分そこから類推してこうだろうと組み立てで積み上げられたこの論証については結論だけ見ると確かに色々考えると当たっているよなと思えることが多いものの、現代の文化人類学ではどう評価され、実際にネミの森で起こっていたことについてどのような考え方が主流になっているのか。その点wikiにも詳細な記述がない。

そこのところについて良い資料が見つかればもうちょっと掘り下げてみたい。