近年、「東アジアの奇跡」を踏まえ西洋型発展経路とは別の経済発展経路もあったのではないかという歴史の見直しが進んでいる。
 それによれば、東アジアの先進地域(日本や中国の中核地域)では稲作中心の小農家族経済が基本だったので、生産要素市場(資本、労働、土地)の発達にはバラツキがあったが、労働集約的な技術と家族労働の吸収のための制度やイデオロギーが高度に発展した結果、膨大な人口を抱えつつ、ある程度の生活水準の上昇が達成された。
 土地の希少な東アジア経済では、技術や制度の発展の方向はもっぱら土地生産性の上昇に規定された。制度的には、西洋型経路のように生産要素の結合の自由度を高める方高に行くのではなく、限られた資源を効率良く使う努力が重視された。
 19世紀後半に西洋の技術や制度が導入されると、当初はそれらを模倣しようとしたが、やがて土地や資本が相対的に希少で労働力が豊富な、東アジアの状況に見合うように、技術や制度の方を適応させることによって工業化を進めた。資本と労働が代替可能な場合は労働を使おうとした。西洋型の発展が資本集約型だったとすれば、東アジアでは労働集約型の工業化が追及されたのである。
 世界経済の統合とともに資本や技術は自由に移動するようになったが、20世紀になっても国債労働市場は白人と非白人の市場に分断されたままだったので実質賃金に大きな格差が生まれ、アジア、アフリカには労働集約型の産業で競争力をつけることによって工業化を進める可能性が生じた。その先頭を切ったのは、植民地化を免れた日本などである。
 東アジアの小農社会に育った人たちは、資本と資源をふんだんに使って規模の経済を追求するチャンスには恵まれなかった。20世紀前半には資本と資源へのアクセスの面で西洋との格差は一層広がった。しかし、労働の質の格差が拡大したわけではない。仕事場で同僚と協調しつつ、問題に柔軟に対応したり、改善策を考えたりする能力は、むしろ労働集約型工業化の過程で広範に形成された。
 現在では世界の製造業雇用の実に8割以上が、一人あたり所得5000ドル以下の国に位置している。約5割をアジアの発展途上国が、2割以上を中国が占める。東アジアで根付いた労働集約型の発展経路は、世界の雇用と所得分配の動向を左右する大きな力に成長したのである。
(参照元:日本経済新聞 2005年2月10日 p.30 『やさしい経済学-21世紀と資本主義 世界史のヒント 3.東アジア型の発展』大阪大学教授 杉原薫)