後に悔いるから後悔

今日に入ってからなんとなくstate of pacificといった感じ。決してstay calmではなく。
その心は、決して落ち着いているわけではないけど、正と負の感情がぶつかり合って表面上穏やかに見える、といったところ。
正直冷静に考えると僕にどんな落ち度があってもこの仕打ちはないんじゃないかという気持ちもある。一方で結局彼女の内面で何が起こっているかなんて決して推測できる物ではなく、推測したところでどこまで行っても推測でしかないことを考えると彼女の行動規範についてコメントすることは適正ではなく、自分が感情として我慢できるかどうかただそれだけ何じゃないかとも思う。
どうよ、この思考のねじくれ加減、と我ながら呆れるわけだが、まあこうやって危ういバランスを取っていると言うこと。ただ、正と負のシーソーはバランスを取っていても土台が沈み込んできていることは確か。
仕事に振り向ける気力もだいぶ減ってしまった。それではいけないと思うのだが。自分のキャパシティの小ささには些か呆れる。

いっそ、揺れる物は揺れさせてしまえばいいのかもしれない。

今日考えたことの中で一番動揺を誘ったのは、高山で彼女が倒れたとき、何故彼女を背負って走らなかったのかという後悔だ。多分彼女は嫌がっただろう。あまり記憶にないのだが、提案して断られたような気もする。

でも、今考えるとあの場面では絶対にそうすべきだったと。嫌がっても叱りつけてでも背負ってしまえば良かった。でもあの時点の僕にその選択肢は無かったのではないかとも考える。

後悔するとき、何となく二つの道があって一つを選んだかのように錯覚することがある。実際に綺麗に選択肢が顕れる場面なんてそうはないだろう。仮に競馬で考えて一点買いが主義という人がいたとしても恐らく思考の線上で幾つかの選択肢を削ぎ落として最後に二つ残ると言うことはまず無いのではないだろうか。その時点ではあらゆることを考慮して最良と思われる選択を人はしている。ただ全てを俯瞰することなんて出来ない。仮にその時点での全てを俯瞰できたとしても時間軸上の未来を見渡せるのは人間ではない。ところが後悔しているとき、人間は未来を俯瞰する。ことが起こった時点から見ての未来、後悔している時点では過去の出来事を。そしてその時点では決して頭に浮かんでいなかった選択肢を一つ付加するのだ。

だけど、この作業は恐らくは無意味ではない。苦い肝は幾らでも舐めるべきなのだ。もしそのことによって次の後悔の種が一つ減るならば。まあもう一つの道が別の後悔に通じていないという保証はないのだけれど。