遊びのルール2 本筋

なんだか書いているうちに自分が気に病んでいるテクニカルな部分に結論が移行してしまったが、最初に考えていた結論は別のところにあったので追記する。

要は中途半端な状況に置かれ、離脱してしまったときの心境とどうしてそうなっていったかというところに焦点をあてたかったのだ。

これは皆さんに共通するかつて味わった思い出というわけではないだろうから判る人にしか判らない話になるかもしれない。


子どもの頃にふと遊びの中で自分に役が振られていないことに気付くことがあった。別段つまはじきにされているわけでもなく、ただ仲の良い子がその子がより親しくしている子についてしまっていたり、ゲームが自分の苦手なものに変わったり、理由を言葉にするとどれもちょっと違うような気がするのだが、どんな状況か一言で言ってしまうと「僕帰る」とボソッと言ってほぼ誰にも気付かれずにその場を離れても誰も気にしてくれないという状況だ。

つまるところ、自分は石ころと同じかよく言って映画の中の群衆の一人か背景画のようなもので積極的にはその場の誰の意識にも上っていないような感覚だ。


これは自分の感覚の問題なので実際どうだったかはわからない。が、小学生の高学年ぐらいになって遊び仲間が地理的な束縛の元に構成されていた頃は頻繁に起こっていた*1ことだと思う。その後、より近い嗜好性を持つ友人*2と遊ぶようになったら、それはそれでいろいろと問題があったのだが、少なくともこういった極端な疎外感を感じることはなくなったように思う。

実のところ、これは自分の脳内の問題だった可能性も高い。遊びの中でイニシアティブがとれない状況で自分の嫌いな遊びに義務的に付き合うという状況に勝手に空虚さを感じていたという仮説だ。


それから思春期の過程で今にして思えば定型的なプロトコルの取得を目論み、運動音痴でかつ運動嫌いであったにもかかわらず体育会系の道を歩み、成人ちょっと前にはお酒というツールを手に入れて異世界*3の人間ともコミュニケーションがとれるようになったり、色々と自分は変わってきたつもりだったのに、昨日のあの瞬間の気持ちは全く幼児期の心証のフラッシュバックのようであった。

まあ、しょせん自分のやってきたことは手数を増やす努力ぐらいなもので自分に本質的な、或いは奇蹟的な変化があったわけではない。状況さえ整えば同じような感覚を味わうのは当たり前かもしれない。


いずれにせよ、自分の悩みの一つは未だに「遊んでいてもどこか楽しくない」ことで、その原因を突き詰めていくとこのあたりに何かが存在しているのかもしれないと思ったのだ、って本当はそう書きたかったはず^^;



書いていることが当初の構想から迷走するのは文章を書く順序としてアウトラインを先出しすることを含めて文章はテクニカルに書くことが出来るということを学んだ大学時代*4以前は書き出しから脳内に蓄積されている書きたかったことを徐々に吐き出していくだけという実に野性的な書き方だった。今でも大学以前の習性が身に染みてしまっていてかなり意識して「技術」を使わないと必定的に脱線してしまう*5

ただ、その習い性のままで長文を書ける人が居るとすればそれは宇宙かどっかから怪電波を受信している「自動書記」さんか、余程脳の短期記憶領域のキャパシティの広さと創造性を併せ持った人間離れした天才だろうから、一応どちらでもないと思っている僕はもう少しこの癖を何とかしなくてはなぁ、と思った。長い蛇足だけど。

*1:自分の心証として

*2:いわゆるオタク仲間だ

*3:電脳を介したという意味ではなく自分と全く違う環境にいる人の意。蛇足ながら^^;

*4:今にして思えば大学時代に学んで役に立ったと思った唯一のことだった。実践は中々出来ていないけど^^;

*5:まあ、僕の話が面白いと思ってくれる数少ない人によれば、その脱線的なところからアクロバティックに本筋に回帰したり、そのまま流れていってしまったりするスリリングさが良い、とのことだが^^;